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小倉百人一首![]() 百人一首(ひゃくにんいっしゅ)とは、古来の代表的な歌人百人について、一人一首を選んでつくった詞華集のことである。現在の日本においては通常、その中でも、小倉百人一首と通称される、藤原定家撰による新古今期までの代表的な歌人百人について作られた私撰和歌集を指す。 小倉百人一首の原型は鎌倉時代の歌人藤原定家が、上代の天智天皇から、鎌倉時代の順徳院まで、百人の歌人の優れた和歌を年代順に一首ずつ百首選んだものであり、摂関家藤原北家道兼流・宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の京都嵯峨野の別荘、小倉山荘の襖色紙に載せるために依頼を受けたのがそのきっかけと言われている。 男性79人(僧侶15人)、女性21人の歌が入っている。成立当時まだ百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」とか「嵯峨山荘色紙和歌」と呼称された。 いずれも古今集 、新古今集などの勅撰和歌集から選ばれている。歌道の入門書として読み継がれた。 江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まった。より人々が楽しめる遊戯として普及した。 関連書に、やはり藤原定家の撰に成る『百人秀歌』があり、百人秀歌と百人一首との主な相違点は「後鳥羽院・順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の3名が入っている」「源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく別の歌である」2点である。現在、この百人秀歌は百人一首の原撰本(プロトタイプ)と考えられている。 江戸期までの百人一首は、読み札には作者名と上の句のみが、取り札には下の句が、崩し字で書かれており、現在のように読み札に一首すべてが記されていることはなかった。 これは元来歌がるたが百人一首を覚えることを目的とした遊びであったためであり、江戸中期ごろまでは歌人の絵が付されていない読み札もまま見られる。 また、現在でも北海道地方では、下の句かるたというやや特殊な百人一首が行われており、読み札に歌人の絵がなく、上の句は読まれず下の句だけが読まれ、取り札は厚みのある木でできており、表面に古風な崩し字で下の句が書いてあるという、江戸期の面影を残したかるたが用いられている。 |
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